waniwaniの雑記帳

自作PC/就活論/労働問題/大学生活/社会問題 などについて書きます

就活を終えて

1年半、就活をして思ったのは結果は出るべくして出るんだなということです。

私は昨年の6月から夏のインターンに向けて活動を始め、(昨年の)夏休み中は3社のインターンに参加しました。その後も、週に何度かは自己分析やESの見直し、企業研究などを続けていました。

その結果獲得した内定(内々定)の数は3社。自慢ではないことを先に断っておきますが、私がESを提出した企業19社の内、その中に一般的に知られていない企業は一つも無いと思います。いわゆるオタク業界や銀行、証券、損保、生保と受けましたが、どれも上位10社には必ず入る企業しか受けませんでした。

それは私自身のプライドが高いということにも由来しているのかもしれませんが、自分自身が1年半やってきたことの結果を出したい(出さなければならない)と考えたからの行動でもありました。自分が「就活難」ではないことを証明しなければならない、学生の努力(の仕方)が足りない(悪い)ということを証明したかったからかもしれません。なんにせよ、私自身そういった観点で言えば「結果を出すことができた」と思っています。

自分のやりたい職業につけたかというとかなり微妙です。私は何度も言っているようにオタク業界(玩具やゲーム、レコード会社)で働きたいと考えていました。ES提出企業の内、半数以上がその関連の企業ですが全て無内定です。自分自身、めちゃくちゃ企業研究もしましたし、自分の(その会社に対する)アピールポイントも洗ったつもりでしたが、とうとう内定を得ることはできませんでした。その点では結果を出せていないことになります。

ですが、金融系の企業についてはほぼ全通と言ってもいいくらいの結果が出ました。私自身が商学を学んでいるからなのかは分かりませんが、スポーツもサークル程度しかしていない私が内定を得られたのには何かしらの理由があるのかもしれません。ぶっちゃけその理由は分かっていません。元々、一部の企業以外は志望度が低く、厳選してるとはいえ、面接もESもほぼ丸写しみたいな状況でした。それでも3年の夏からの貯金があったから受かったのだと思います。

自分自身、悩みました。いつ下降するか分からない経済状況の中、就職浪人というリスクを取るのか、それとも自分自身の夢のために足掻くのか。結果的に、就職浪人はできませんでした。新卒というカードを捨てざるを得ない家庭状況で、かつ今ある大切な内定を捨てる選択は、自己分析した「安定志向」の私にはできない発想でした。

もう一つ理由があります。私の20数年間の人生の中で最も結果が出ていないことは「恋愛」や「人間関係」でした。私自身本当にモテたためしがなく、正直な所「金銭」や「社会的地位」に対して強い憧れや希望がありました。金融系はそれこそ激務であることが多いものの、「金銭」「社会的地位」については一流企業並の待遇があります。そこは私には魅力的でした。変な話、そこが一番重要な部分だったのかもしれません。

何はともあれ、就活が終わり、不安であった無内定という状況もほぼ確実にあり得ないこととなり一安心しています。今は学生の間にしかできないことをひたすらやろうかなと思っています。

ゼミの研究も始めなければならないため忙しくなりますが、可能な限り更新していくので今後も当ブログを宜しくお願い致します。

就活解禁日の変更で結局何が変わったのか

企業の採用活動(面接や内々定)の解禁日が(名目上)8月1日からになったのは周知のことであろう。これまでは「4月解禁」だったため、都合4か月の遅れである。

この遅れは学生にとっては本命企業の内々定が早期に得られず、結果的に長期間の就職活動を強いられることになった。また、学生が「もうここでいいや」と妥協して他の企業(主に経団連所属以外の採用活動を自由にする企業)に奪われないようにするために、大企業も学生の引き留めのためにセミナーや座談会と称して学生の引き留めを行うことを強いられた。

逆に、解禁日を守らない(守らないという表現は可笑しいが)企業も、結局は内定辞退を先読みする必要や辞退されないために採用活動とは別に何かしらのフォローを継続したり、大企業の内定後に落とされた学生の受け皿となるために採用活動をしなければならないため、こちらに関しても採用活動が長期化したのである。

大学側も、以前は就職活動と授業期間が1か月から2か月程度しか被らなかったため、配慮の必要があまりなかったが、今回からは企業の説明会やセミナーなどが上記のように長期化し、多数の就活生が参加をする必要が出てきたため、それに伴って指導が疎かになり、7月後半に関しては期末試験などに採用面接などが被ることもザラであった。実際に私も同様である。

この話は採用活動に限った話であり、就職活動とは今まである種「別」とされてきたインターンシップに関しては含まれていない。私や他のコラムニストが提唱しているように今回からはインターンシップが実質的な採用選考になりうる(現段階では可能性があるという表記)ということも含めると、3年次の6月から夏期インターンシップの選考活動が始まるため、この時期から「就職活動期間」としても良いくらいである。

この「解禁日の遅延」の件は安倍首相が経団連に「大学生が学業に専念できる時間を延ばし、人材育成につなげるため」に申請したということである(出典不明)が、結局文系学生に関しては私やほかの友人に聞く限りは「長期化した」という印象しか受けないし、理系学生に関しては「研究」をする時間が無いといったことを見聞した。

言われているように、我々の世代は「モルモット」である。「ゆとり教育」に代表されるようにロクに議論もされていない、実状を理解されていないのに頭でっかちな考えで施策を実施され、結果「ダメなやつら」「失敗」と煽られるのである。

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実際問題として、就活解禁日はいつ頃が良いのだろうか。

これに関しては一考どころではない余地があるのだが、それはまたの機会にして今日のところは引き上げるとする。

以上。

学歴差別がなぜ問題になるのか(学歴差別と学校差別)

どうして学歴差別が問題になり、度々取り沙汰されるのだろうか。

ウィキペディアによると、学歴差別には以下のような問題が存在するらしい。

第二次大戦後の日本における学歴差別の根本は、もっぱら「中卒者に対する差別」にあり、「中学校を卒業すれば、全員が(当然のように)高校へ進学する」「高校に進学しない人は能力も低い」「学歴が低い者は10代のうちに努力をしなかった」といった、根拠のない偏見や「高校が義務教育である」と決めつける、「誤った前提」で成り立っており、「本人の責任がないにもかかわらず、高校へ進学できない人」に対する事情が無視されており、中卒者を無条件に軽侮するなどの差別が横行している。

しかし、この学歴主義者の主張する前提には整合性が欠けており、つまりそこには、「実力はあるけれど学歴は低い人」や「『親』『家庭環境』『出生地』など本人が選べない理由によって、高校に進学できなかった人(または自主退学を余儀なくされた人)」がいることと、「中卒者全員が高校に進学できるとは限らない(あるいは進学を希望するとは限らない)」「(現状の制度では)高校を義務教育とする、法的根拠がない」などの現実を無視している。言い換えると、『親』『出生地』など教育以前の問題を無視している。

上記のように想定されうるパターンとは別の可能性が存在するにも関わらず、特定の人を無条件に差別する行為は極めて危険である。正当な根拠もなく「中卒者は能力も低い」と決めつける内容は、「肌の黒い黒人は犯罪を起こす」「女は就職しても、いつか産休などして会社に迷惑をかける」などといった、ステレオタイプな差別となんら変わりのないものである。

学歴差別 - Wikipedia より引用

 ウィキペディアから得た情報が一般的な正当性を持つかどうかはまた別問題として、「中卒者(今となっては高卒者も含めて)に対する風当たりの強さ」については確かに差別をされているというのは主観的には極めて正当性が高いと感じる。

これも一種の「学歴差別」であるし向き合っていかなければならない問題ではあるが、今私が問題としたいのはこういった「中卒(高卒)者が差別を受ける」といった状況ではなく、「大学のランク」によって(不当な)差別を受けること。すなわち「学校差別」のことなのである。

 

私は前回『「学歴差別」はよくないのか』という記事で、学歴差別(学校差別)は別に悪いことではないとしました。一方で、一部の採用担当者が「学校の名前」だけで多くのいわゆるFラン大の就活生を不当に落としている事実もあり、それはそれで問題であると感じているのです。

もちろん採用担当者の立場になってみれば、何千人もの志望者一人ひとりを精査し(言い方は悪いが)振り分けることは人員・費用・時間的に厳しい面があると思う。だからこそ、学歴フィルターという便利な方法を用いてある程度の人数まで志望者を減らすというのは一面的に正しいことと思う。

学歴フィルターの機能について説明しておくと、学歴フィルター及び学校フィルターとは「学校名(大学名)によって、セミナー・説明会・エントリーなどの実施をシステム的に遅延させたり、禁止させたりすること」を言う。企業が学歴フィルターを用いる具体的なメリットは「効率の良さ」である。学校別の母集団毎に見た「優秀」な就活生の比率はある程度決まっており、それは統計的・経験則的に正しいことだ。それ故、先に話した通り採用に力を注げない(注ぐ方向にない)企業は学歴フィルターをやむを得なく用いるのである。

採用担当者の多くは、個人レベルで見ればある上位大学の学生よりも下位大学の学生が能力的に優秀なこともあるが、大学という母集団で見た時はどうしても優秀な学生の「比率」は上位大学と下位大学では差ができてしまう、と考えているだろう。

 

ここで問題にしたいのはそういうことではなく、「大学のランク」によって不当な差別を受けることが問題なのである。

いくら個人レベルでは違うという認識があったとしても、潜在意識として「◯◯大学出身なら馬鹿だろう」という認識だとそれをひっくり返すことからはじめなければならない。つまり(学歴フィルター無しに)スタートラインがそもそも違う、劣っている可能性が高いということが「学歴差別」が問題になる理由なのである

先に話したとおり、採用担当者の多くはそういったステレオタイプばかりではないと願いたいが、そういった差別が水面下であるのは間違いないのである。だからここまで問題になっているのだろう。

採用担当者及び採用に関わる人には学生の選別に対してより慎重になってもらいたいし、それが企業のためにもなるというものだと私は思う。

以上

大手病

就活という言葉が世の中に浸透して何年経っただろうか。私の持論では本来の「就職活動」という意味は薄れ「就社活動」に変化しつつある、と考えていることはこれまでの記事を見ていただければ分かるだろう。

多くの就活生はなぜ「新しい飲料を作りたいから飲料メーカーに入りたい」のではなく、「飲料メーカーに入りたいから飲料を作りたい(と言う)」のだろうか。私には理解し難いし、本人も多少疑問に思いながらも「周りと同じようにしなきゃ」「就活本とかネットに書いてあった」とかそういうことを鵜呑みにして就活に励んでいるのではなかろうか。
 
私の友人に業種を絞らずに、各業界のトップ1〜5くらいを総当り的に受けている人がいる。それは私には理解できない行為だが、一面で社会的には(就活生的には)正しい行為だとも思うのである。
「なんで業種を絞って就活をしないのか。大手だったらどこでもいいのか。」という質問に対して、その友人は「自分の向き不向きが分からないし、企業が選んでくれるならそれを利用したい」と答えてくれた。なるほど、確かにその考えは合理的かもしれない。業界への適性を自らで切り捨てるのではなく、企業から切り捨ててもらう。合理的だ。
 
しかし、質問した通り結局のところ「どの会社でもいい」のである。ライフワークバランスが叫ばれるこのご時世であるし、仕事というのは確かにそこそこにやればいいかもしれない。だが、それなりに高待遇で社会的価値を自分に認められてしまえば、あとはどんな仕事でもやってみるという判断はいささか早計ではないだろうか。
たしかに「やってみてダメだったら次に行けばいい」という考え方は理解できるが、事就活及び企業選択に関して言えばこのような考え方は危険ではないかと私は思う。今の日本社会において転職は万人にとって良い結果が生まれるとは言えない。それは半分以上の転職者が前の職場よりも給与も待遇も落ちたとアンケートで答えていることからも分かるだろう。
 
日本においては就職という行為は「たった一度きり」なのである。だからこそ大企業ばかり、しかも業種を絞らずという考え方は危険であるし、オススメできないのである。
 
これが世間でいうところの「大手病」とその処方箋である。
 

「学歴差別」はよくないのか?

(こちらの記事を参考にさせて頂いています。なお、当該ツイートは既にアカウントが削除されておりアクセス出来ない状況になっています。)

前々から「ある」とか「ない」とか言われていた学歴差別ですが、「ありました」ね(知ってた)。私のタイムラインでも「うわー」とか「ありえない」とかって騒がれてはいたんですが、そんなにありえないことでしょうか?

そもそもなぜ「学歴差別」もとい「学歴フィルター」を一部の企業が行うのかについてですが、そんなことは私の知ったところではありません。会社のプライドがあるのかもしれませんし、単純に経営者が「入れたくない」だけなのかもしれませんし、フィルターをかけないと選考が大変なだけかもしれません。私は人事ではありませんし、経営者でもないですから、企業の本音は分かりません。

ただ、「学歴差別がよいものか」については議論の余地があると思っています。

まず、皆さんに問いたいのは学歴差別ってなんですか?多くの人がこの質問に対する答えとしてふわっと持っているのは「就職活動において、学歴(大学入学時の大学名及び偏差値)によって不利益を被ること」だと思います(それ以外の意見をお持ちの方は是非コメントかリプライをして頂けると幸いです)。でも、それって悪いことですか?

確かに、少なくとも「正攻法」「正義」ではないと思います。ただ、それが一方的に非難される謂れはどこにもないと思います。

例えば、「大学受験」を「徒競走」に置き換えて考えてみてください。運動会で徒競走をしたら1番の人にはメダルが貰えたり、賞品が貰えたりしませんでしたか?1位になった喜びだけではなく、1位になったことへの有利性が何かしらあるはずです。もしかしたら徒競走にはなかったかもしれませんが、「大学受験」にはあるのです。

スポーツはある程度身体のつくりなどによって得手不得手が出ますが、勉強はどうでしょうか?先天的なもので大きく差がつくものではありませんよね。だったら受験は多くの人にとって比較的「平等」であると言えます。

平等な「競争」をして、その結果によって「差」がつくことが「差別」なのでしょうか?むしろ、「差」がつかない事のほうが「差別」ですし、それを許してしまえば人は競争することをやめ、怠惰になっていくのではないでしょうか。

私は学歴コンプレックスがあるわけでもありませんし、学歴差別という方法が良い方法だとは思いません。ただ、それを一方的に非難することはいかがなものかと考えています。

学歴によって差別を受けるなら、その学歴を手に入れるべきでしたし、手に入れられなかった時点である程度諦める選択というのも必要です。ただ、どうしてもその企業に行きたいという意思があるならば、学歴が自分より高い学生よりも自分が秀でていて、企業にとって有益な資質を持つために努力をするべきではないでしょうか。少なくとも今回は「たかがセミナー」です。セミナーに参加できなかったことが、学歴差別であるかは微妙なところです、実際選考には進むことができるでしょう。その時点で自分の有益性をアピールすることが就職活動において最も必要なことではないでしょうか。