waniwaniの雑記帳

自作PC/就活論/労働問題/大学生活/社会問題 などについて書きます

「意識が高い」ことと「意識高い系」

私はわたし自身を「意識が高い」と思ったことは一度もない。嘘をついた。意識が高いと思ったことはあるが、現在進行形で「意識が高い」とは思っていない。ただ、周りにとって私という存在が「意識が高い」ものであるかどうかは分からないし、分かる必要もないと思う。

さて、「意識高い」のアンチテーゼ的な言葉として「意識高い」があるのは周知の通りだ。では、私は「意識高い系」なのだろうか。答えは否(であって欲しい)だ。きっと、多くの大学生にとって私の書く記事や言動は「意味不明」であり、「学生のくせに何を言ってんだ(プゲラ」と思われているだろうし、それは仕方ないと思う。実際、私の所属しているゼミでも私は浮いてるし、周りも私の意見に大賛成というわけではないらしい。

逆に、私からすれば、役員や幹部と呼ばれるような運営側に立ってサークルや学生団体を動かす輩は「意識高い系」だと思う。なぜなら、多くのそういった学生に「熱意」をカケラも感じることができないからだ。友達がいなくなるのが嫌で、サークルを続け、いつの間にか運営代になり、やる気のある同期に流されて、他に特にやることもないし、よく調べて無いから分からないけど、就活で役立つかもしれないから、とりあえず運営に携わっておこう。みたいな学生が全体の6割くらいじゃないだろうか。統計を取ってないから分からないがきっとそうだろう。同様に、海外ボランティアに行ったりする学生にも似たような疑問がある。

彼ら・彼女らはなぜあんなにも行動原理が曖昧なのだろうか。何をするのにも「友達の◯◯ちゃんが~」とか「セミナーで◯◯という偉い先生が~」とかばかりで、全てが他人任せである。自分がやりたいことが見つかってなさすぎるのだ。目の前にあるやりたいことの中から「やれること」を見つけてそれをすればいいだけなのに、あたかも「サークル活動」や「海外ボランティア」が自分のやりたいことのように、それこそ周りに流されて、考えてしまう。

もちろん、セミナーだとか友達の言っていたこととかを参考にするのは大切だし、参考にするのは構わないし、私に意見される必要もない。だけども、何人かの学生に「なんで◯◯(ボランティア・起業・サークル立ち上げ・サークル運営…etc)をしようと思ったの?」と聞くと本当に曖昧な回答しか返ってこないのである。

周りがやってるから、ネットに書いてあったから、とかを理由にして行動してしまう、大学生の行動原理、いや、日本社会の行動原理が狂気に満ちているし、就職活動においてもそれは顕著だろう。周りと同じ服、周りと同じ志望動機、周りと同じ自己PR。本当に馬鹿だ。またこの話は次回にしよう。

ここまで書いてはっきりと分かったが、私は「意識高い」なのである。