waniwaniの雑記帳

自作PC/就活論/労働問題/大学生活/社会問題 などについて書きます

理不尽さと戦うのは誰だ

金属は叩いて「延ばす(延びる)」ものだが、ゆとり世代は叩いても潰れていくだけである。それは自分自身を見ていても、周りを見ていてもよくわかる。

理不尽な叱り方をする上司というのはいつの時代でも存在していたが、今はそんな上司の元では優秀な部下は育たなくなってきていると私は思う。

典型的な「理不尽上司」として、責任の所在を追求してしまう上司がいる。例えば、顧客からのクレームの内容が「顧客自身の責任」なのか「商品or社員の責任」なのかが分からない、いわゆる「水掛け論」の時にその責任をどっちか一方に抱えさせるといったことだ。飲食店などは「客商売」の観点からその責任が社員にいきやすく、それゆえ社員自身が責任を追求され「潰れてしまう」というようなことが発生してしまう。

ゆとり世代はデジタル世代なので「証拠」や「論拠」を最も重視する。彼らの正義は「情報」であり、「データ」以外は悪なのである。そのため、例にあげた「水掛け論」ではゆとり世代は潰れてしまうわけである。

同じような話で、体育会系ではよくある「指導者責任の法則(指導した人物に被指導者のリスクが転嫁されること)」もゆとり世代にとっては困りものなのである。「指導者=ゆとり世代」「被指導者=ゆとり世代」の時、指導者、いわゆる先輩は後輩のリスクを受けなければならない。しかし、ゆとり世代の多くは「個を伸ばして」育てられたため、自我が強く「自分のミス以外は自分のミスではない」と思いがちで、実際にきちんと指導をしていても失敗することなどよくあることであるが、上司に怒られると、「自分はちゃんと教えたのに…クズめ」と考えてしまう。

ただ、ここまで書いて私が感じたのは「別にゆとりじゃなくても日本社会全体的にこういうことはある」ということだ。理不尽な上司は先にも書いたとおり、いつの時代でもいたし、体育会系の上司もたくさんいる。では何がゆとり世代(と揶揄される若者)とそれ以外とで違うのか。

よく言われるのが忍耐力である。先に書いたように、ゆとり世代は「個性を伸ばす」教育を受けてきていて、そのため他の世代よりも「個(アイデンティティ)」が圧倒的に強い、また集団での自分の役割もしくは立場を重視してしまう傾向にある。それ故「ミスをすること」や「叱咤されること」に対して異常な恐怖を感じているのである。

一方で、ゆとり世代より前の世代はどうかと言われれば、理不尽な教師はゴロゴロいたし、親も理不尽だったし、社会に出ても理不尽だった(らしい)。だからこそ、自分が耐えてきた(耐えることができた)理不尽を部下であるゆとり世代に乗り越えてほしい、乗り越えられるだろうと考えてしまう。

それらのアンマッチが昨今の「ゆとり世代は糞論」を生み出しているのではないかと私は考える。

では、どうやってこのアンマッチを解決するのか。とりあえず「受け入れる」ことをすべきなのではないかと思う。「君はこういうところが良い、だけどこういうところが悪い、それを直すためにはどうすればいいのかな調べてみて」と。ゆとり世代にとって「調べる」行為は簡単である。Google大先生でちょちょいのちょいだ。そうさせておけば、勝手にネットの情報を鵜呑みにして勝手に直っていく、そしたら褒めて、また次直した方がいいことを指摘する。机上の空論だが、そうでもしないとゆとり世代はアホだからできない。親にも教師にも褒められて生きてきたから。

上司はゆとり部下の扱い方をいい加減に学ぶべきである。なじる教育はもう終わりである。褒める教育こそ今求められている教育の仕方であるのではないだろうか。

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といいつつも、実際問題として打たれ弱いというのは問題である。基本的に上司も人間であるから、とりあえず「上司」という人間の性格をGoogleなりなんなりで調べて、自分なりに飲み込んでしまったほうがいいのだろうと思う。納得できなくても、ツイッターとか知恵袋に書き込めば、とりあえず文字通り「鵜呑み」にはできる。地球人からすれば火星人は宇宙人であるが、火星人からすれば地球人も宇宙人である。同様に、ゆとり世代は宇宙人だが、それ以外の世代も宇宙人である。