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ぼっちの小部屋

フリーライターの雑記帳(不定期更新)

野犬は怖い

僕は幼いころ、犬に噛まれた経験がある。小さい犬だったが、獰猛で、怖かった。

僕が今住んでいる周南市は全国でも突出して野犬の多い地域だ。夜、少し残業をして帰宅していると週に2・3度は野犬に出くわす。大きな通りから一本離れた道ですら、そういう状態なのである。

sippolife.jp

早朝にジュースを買いに外に出ると、やはり野犬に出くわす。追いかけてきたり、吠えられたりするわけではないが、やっぱり「犬」は怖い。

犬が怖いわけではない。躾けられてない、吠えたり、追いかけて来たりする犬が怖くて苦手なのである。今でも、リードに繋がれている犬ですら、吠えられれば怖い。

周南市の野犬は先程も言ったように、吠えないし、追いかけても来ない。でもビックリする。もし何かの拍子に、彼ら(彼女ら)の機嫌を損ねて、追いかけられ、噛まれて、怪我でもしたらどうしようかと思ってしまう。

犬は元々狩猟動物だ。躾けられれば、それほど脅威は無いが、躾けられていない犬は本能的に何かを襲う可能性がある。それを野放しにしておくのは耐えられないし、不安だ。

動物愛護団体は、保護された野犬が保健所で殺処分されてしまうのが気に入らないらしい。

satsuzerozero.blog.fc2.com

彼らは「野犬を生み出したのは地域の人間だ。」と言う。僕からすれば「それがどうした。僕は襲われるのは嫌」だ。

犬や猫を捨てたりするのは、当然に、悪いことだし、犯罪だ。同じ地域に住む人が、そういう行為をして、野犬を生み出した。でも、「野犬に襲われる可能性を排除したい気持ち」と「地域の責任を自分自身も背負う事」は無関係に思う。

野犬はいなくなって欲しい。怖い。

「貸与奨学金制度」は日本社会の抱える闇なのか

就職問題・労働問題 大学生活

2015年度の(短期大学を含めた)大学進学率は遂に男女合計で56.5%にも上った。2001年度が48.6%だったのに対し、約15年間で約10%の伸び率である。こんなにも多くの人が大学(短期大学)に進学する目的は一体何なのだろうか。

就職問題について取り組んでいると、どうしても「学歴差別」について触れることがある。ここで言う学歴差別はMARCHや早慶上理などの別で行われる「学校差別」ではなく、いわゆる「高卒(もしくは中卒)者」と「大卒(短大卒)者」の別で就職希望者を振り分けることの事を指す。バブル崩壊以降、とりわけ大学進学率が40%を超えた2000年台からこの差別は顕著なものになっていった。

なぜ「大学進学」が当たり前なのか。極端な言い方をすれば、大学進学する人が多数であるからである。無難な事を言えば、大卒者は当然に高卒者よりも高いレベルの教育を受けているからだ。すなわち、大卒者であれば、高卒者よりも多くの知識量や高い論理力を備えている(可能性がある)。そのことを考慮すると、やはり高卒者を含めた就職希望者全体を採用分母とするよりも、大卒者のみで構成される就職希望者を採用分母とする方が会社にもメリットがあると思われる。

高卒者が使えないと言っているわけではない。学校差別の問題でも似たような展開をしたが、母集団としての高卒者にはやはり「勉強ができない(=努力ができない)」人が存在しており、それがおそらく多数であると推察される。そういった現状があるのにも関わらず、高卒者をわざわざ雇用しようとする企業は多くないだろう。もちろん、高卒者は大卒者に比べれば一般的に低賃金で雇用でき、大卒者ほど昇給しなくても良い。これは元々大卒者が「幹部候補」として採用されてきた歴史からの流れを汲んでいると思われる。しかし、今やそれが全入時代を迎え、溢れかえった大卒者の影響で崩れているのである。

大学進学を考えるうえで、避けて通れないのが「学費」である。日本はまだまだ奨学金制度に対して世界的に見ても整っているとは言い難いのが現状だ。ただ、貸与型の奨学金にしろ給付型の奨学金にしろ、給与だけの面で見れば大卒者の方が平均生涯年収は高いのが日本である。それは学費を考慮しても大きく差がある。

男性の生涯年収は学歴別で「中卒者→1.7億」「高卒者→1.9億」「大卒者→2.5億」、女性も「中卒者→1.1億」「高卒者→1.3億」「大卒者→2.0億」となっている。高卒と大卒では男性で6千万、女性で7千万も差が出ている現状である(※労働政策研究・研修機構「ユースフル労働統計2014」より抜粋)。

私立文系大学の学費は約450万円、私立理系大ならば約520万円である。これらの金額を差し引いても大卒者の方が生涯年収単体で見れば「お得」であるのが今の日本である。当然、ここには卒業大学の別による生涯年収の差は考慮してないため、必ずしもお得になるとは言えないが、全体としてこういった現状があるのは認識していただきたい。大学に行くほうがお得であるならば、奨学金を借りてでも大学に行こうと思うのは当然のことであると推察する。

奨学金制度はそもそもとして「大学に進学したいけど、金銭的な都合でそれが不可能」な人のための制度であることは認識していると思います。当然、社会の標榜として「平等」を掲げるならば、それぞれの家庭の金銭的な事情は個々人の意思からは切り離して考えられるべきであるし、進学したいのに進学できないという生徒は少なくなるようにしなければなりません。そういった観点で言えば、日本の奨学金制度は割りに合ってると言えるのではないかと私は思います。決して「闇」ではない。

奨学金制度が充実しているかは差し置いても、「大学に進学して◯◯の勉強をして△△の仕事をしたい」という夢は当然に叶えられるようにできているのです。ただ、大学入学を希望する学生のどれくらいがこんな意思を持って大学に入学していくのかは把握しかねます。多分、私がそうであったように他の学生も「ただなんとなく偏差値が自分にあってて、勉強したいなと思った学部に進学した」という人が多数で、そこには「高卒で働く」という選択肢はそもそも考慮に無かったのではないかと考えています。

先ほどの例でも「△△の仕事で奨学金を返せるような給与を得られるかどうか」や入社した先がブラック企業だった場合、なんていうことはそもそも考慮に入っていないのではないでしょうか。というか、そういうことを考えさせることができていないのではないでしょうか。「たかが高校生」にそんなことを考えさせる必要があるのか、という疑問はありますが、私は必要があると思います。お金を借りるってそういうことじゃないですか。借りたお金は返さなきゃいけないっていうのは中学生でも分かる理論です。今は親が自分を養ってくれてるけど、社会人になったらそうはいかない。自分で働いて稼ぐというのが基本的な社会人だと私は思います。

イケダハヤトさんは、「借金をするときに、借金を返せる目処が立つことを、学生が完ぺきに予見すべきだ」というのは無茶な要求だ、と言っています。もちろんイケダハヤトさんが言うように、奨学金を借りるときに「自分は4年後、100%就職できて、心身を病むことなく働きつづけ、完済することができる」と確信を持てる人、なんているはずがありません。それは私もそうです。私だって、奨学金を借りるときにそんなことを考えたことは無いですし、今だってキッチリ返し切ることができるかは不明確で、言ってしまえば不安です。

貧乏人なんだからそういうこと(金を借りてまで進学すべきかどうか)を考えるべきだ!という意見もありますが、それは全く違う。貧乏人はそういうことを考える必要に迫られて、そうじゃない人はそういう心配なく生きることができるという社会ってなんだか「嫌」ですよね。

ただ、だからといって考えるべきではないかと言えば違いますし、「よく考えずに借りたけど返せない」というのは客観的に見て許されることではないです。「よく考えて借りたけど、やむを得ない事情があって結果的に返せなくなった」という人のみが考慮されるべきであって、借りたものは返さなきゃならないというルールだけは覆すことができません。やっぱり、考えるくらいのことはしなければならないのだと思います。

私は、奨学金制度に問題があるのではないと思います。「金銭的な事情で進学ができない人にお金を貸せるという制度」が問題なのではなく、「大卒でなければ(全体的に見て)まともな就職口が無くなってしまった」ということが問題だと感じます。それは先述しているように、あまりに大学進学率が高まっていることが要因の一つとして挙げられます。

また、大学でも高学歴とそれ以外では明らかに就職に差があることも問題です。折角、「大卒の資格」を得るために借金をしてまで(一流ではないけれどソコソコの)大学に入学したのに、待っていたのは「学歴フィルター」だった。というような話は就職活動を経験した人ならば誰でも察しがつくことです。それほどまでに日本は個人の能力を「学歴(学校歴)」によって区別しているのです。私は以前、学歴で差別はされるべきだと言いました。ただそう思う一方で、それが偏ってしまって神格化されてしまうのは如何なものかとも思うのです。

いつもそうですが、学校差別に理論が集結してしまって面白くないのですが、極端に言えばやっぱりそうなんだと思います。今の日本社会はあまりに「大学新卒」を神格化しすぎている。「大学新卒の方が使える(可能性が高い)」ではなく、「高卒だろうが大卒だろうが、使えるやつが使える」というのが良いわけです。つまり、仕事の成果による報酬を充実させるべきだと私は思います。そこがまだまだ日本には改善の余地がある。少なくとも、奨学金制度にはまだ触れなくて良いのではないかと思います。

合同説明会の意義と価値

就職問題・労働問題

自慰行為ですら、自分の快楽を得るという目的があるのに、就活に関しては「ただなんとなく」とか「周りがしてるから」という理由で合説だとかに参加する学生が後を絶たない。

今年もこの時期になると、大規模な合同説明会へ足を運ぶ就活生の写真を載せて、やれ「冷たい社会」とかなんだと揶揄する記事が出てくる。こういうのは見当違いで、この写真に写ってるような学生は基本的に馬鹿なのである。この時期になって合説なんかに出るのはまだしも、有名な企業とかのブースにばかり足を運ぶのなんて本当に馬鹿だ。

僕の採用された銀行でさえ(メガバンではない)180名しか取らないのに、普通の企業なら100名を当然切るのである。それなのに「自分は受かるかもしれない」と行動をしてもいないのに安易に思い募らせ、わざわざ人の多いブースへ足を運び、話を聞きながら必死にメモを取るのである。どうせ見ないのに。

よく覚えておいて欲しいのは、今更、目的意識無く合説を含め就活をする学生は既に負けているということだ。誰に負けているかと言うと、インターンシップやセミナーなどで既にその企業(行きたい企業)に接触をしている学生にだ。断じて学歴ではない。

合説に目的意識が無いまま行くと、本当に負ける。結果、内定が無くて詰む。

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と言いつつも、全く何もしてない人が合説にすら行かなかったらそれこそ大変なことになるのは明白なので、就活ブログらしいことも話しておきたい。

まず合説に行く目的について。就活をほとんど始めていない学生は、どんな業界があるのかを見るため。割と始めていて、かつ業界も決まっている学生は他の業界を見るため。以上の二者に別れる。

前者については、時間を目一杯使っていろんな企業を回って欲しい。注意点としてはあんまりたくさん人がいる企業は見ないことだ。そういう企業は所謂人気企業の可能性が高く、先述した通り、自分が内定を貰える確率が極端に低い。つまり倍率が高いのである。そのため、できるだけ人が少なく、時間に大して色々な質問を個別にできる人があまり集まっていない企業から見るべきである。

後者についてもほぼ同様。多分行きたい業界のブースに足を運ぶと思われるが、むしろ逆なのである。「行きたくない」とまでは言わないが、興味が無い企業のブースにこそ足を運ぶべきである。要するに「食わず嫌い」をしないということだ。自分の将来のことなのに、興味が無いからの一点のみで見てもないのに「大したことをしていない」と決めつけるのが最も危険なことは分かると思う。有名企業ばかり受けて、それらから内定がでるのが最も良いが、リスクヘッジとしてそうじゃない企業もできるだけ視野に入れておく事が必要である。一度足を運んでみて、興味が出れば個別の説明会に行けばいいし、やっぱり興味なかったなら行かなければ良いだけである。

合説に行くなら、事前に全ての企業のHPを確認するくらいはして、ある程度回る目星を付けておくくらいはしておきたい。有名企業ばかりにならないように、知らない業種の企業も見る。知らないなら知らないで、「この業界のことがさっぱり分からないです」と聞けば良い(もちろんある程度は調べたうえでだが)。どうせ、採用担当も自分の顔を採用までずっと覚えておくわけがない。覚えてくれたなら別にそれで良いと思うし。気にすることはない。

目的ない就活をしないでください。6月まであと3ヶ月。6月が事実上の内々定解禁と考えると本当に短期決戦です。無駄な時間はありません。ファイトです。

優しさの使い方

自分の話

「(人に)優しくする」のは結局は自分のためなんじゃないかなと僕は思います。「情けは人の為ならず」という言葉の(本当の意味の)通り、いずれは自分のためになるから人を助けなさい(優しくしなさい)というのは人間の本質なんじゃあないかと思います。他人に何かをしてあげることに対して下心があってはならない、というのは綺麗事だと私は思います。

「純粋な好意」に価値が無いとは思いません。「自分のために」何かをする、だからこそ本気になって考えるし、適当さとか、妥協とかを排除できると私は考えます。一方で、独りよがりになってやり過ぎたりすることもあると思います。少なくとも私はそうなんだと思います。

だから、見返りを求めないちょっとした優しさ、つまり「気遣い」とか「配慮」みたいなことしか私はしては駄目なんだと23年間生きてきて気が付きました。「どうやったら好きになってもらえるか」などと考えている時点で、私は独りよがりで歪んだ愛情しか与えていなかったのだと気が付きました。

誰にも優しくしない人生を考えると物凄い絶望感に苛まれます。優しさしか殆ど無い自分から優しさを取り上げたら、何も残らない。そんな無価値な私を誰が好きになってくれるんだ。利用価値の無い私と友達でいてくれる人はどれだけいるのだろう。そんな風に考えてしまいます。それほどまでに私は今まで他人の顔色を伺って生きて来たんだと思います。

私は「誰にでも優しくできる人」になりたかったんだと思います。少なくとも身近な人とかが困っていたりすれば助けたい、などと。けれど、それは私が他人の中に自分自身を存在させたいだけで、未熟で幼稚な考え方なんです。「優しくするから嫌いにならないで」「優しくするから、好きになって」。「優しくすれば良いことがある」という嘘か本当か分からない公式を全ての関係に当てはめて、自分のために頑張ることを放棄していました。

すぐにできるか分かりませんが、人に無闇に優しくするのは辞めたいと思います。きっと「冷たい」と思われたり、利用価値の無い私から離れていく人もいると思います。でも開き直って「そういう人だったんだな」と思い切ることも必要なんでしょう。

格好良い生き方かどうかは分からないけれど、これで良いのだと思います。いつか見返りのない優しさを持てる人間になれればと思います。

「大学生活は楽しかったですか?」

自分の話

私の大学生活は全体的に中途半端だった。勉強はろくにしてないし、サークルも2年で辞めたし、バイトも一番長くて1年半。彼女は当然いなかったし、片想いを拗らせたことしかない。それでもこれから先の人生を考えると、大学4年間を振り返って「楽しかった」と答えるのだろうと思う。だから、この記事を見て「こんなにしんどかったんだぞ!今のほうが確実に有意義な生活なんだぞ!」と思えるように文章化しておきたいと思う。

一般的な文系大学生の生活は「勉強」「サークル」「バイト」「恋人」の4つに分類される。「勉強」は言わずもがな、大学での勉強や資格などの取得について。「サークル」はサークル活動やそこで生まれた人間関係の付き合い。「バイト」は個々人が金を稼ぐためにどんな働き方をしたのか。「恋人」はどんな異性とお付き合いをしたのか。

まず「勉強」について。端的に言って、一切してない。最低限の評価で、最低限の努力で、最低限の単位しかもらってない。唯一、最も頑張ったと言えるのは卒業研究くらいで、労働問題に関する書籍や論文は有名な物を大抵一読したくらいである。商知識なんてものは一切ない。

「サークル」について。テニスサークルに2年間所属したが、男女関係の縺れで半年以上参加しなかった期間があるし、幹部になってすぐに他の幹部との擦れ違いや金銭的な負担の大きさで辞めた。そもそも運動が苦手なのにテニスをやってる意味はなんだ。入学初期の頃は積極的に練習にも参加したが、今でもラリーがやっとで試合になんてならない。今思えばシーズンしかやらないスキーなんかをやっておけばよかったと後悔している。

「バイト」について。色々やったが、基本的に「パチ屋」「レコード屋」「寿司屋」の3つをやっていた。パチ屋は時給が良くてかなり稼げた。ただ人の入れ替わりが激しくて知り合い程度しかできなかったし、なにより肉体的にキツかったので1年半で辞めた。「レコード屋」も基本的にアダルトなDVDしか置いてないから、そのへんの知識はかなり増えたが、残業が多すぎて日常生活に支障が出まくったので半年で辞めた。「寿司屋」は特に酷い。金がないから渋々続けていたが、慢性的に人が足りないからシフトを無理矢理入れられて、いざ出れないとなると愚痴愚痴と文句を言われる。

「恋人」については、先述の通り。いない。片想いこそ何度もしたが、まともに付き合えたことも付き合えそうだったことも無い。悲しい。異性関係ということで言えば、メンヘラからギャルや箱入り娘まで幅広くカバーしていたと思うが、なんだかんだでタイミングが合わないことが殆どである。

反省しているが、別にサークルは入らなくても良かったのではないかと思う。少なくとも、テニサーなんていう無駄に金のかかるサークルよりももっと金のかからない有意義な場所があったのではないか。大してテニスも好きでもないのに、テニサーに所属するために金を払うのは非常に馬鹿らかった。だが、友人関係をまた新たに構築するのはリスクが伴うから、「ぼっち」でいないためには仕方なかったのかもしれない。

学年ごとに充実さはそれなりにあったように思う。楽しかったかは置いといて。1・2年の時はサークル。3年はバイト。4年は就活と勉強。広く浅くやっていたと思う。

基本的に、昔より今楽しいほうが良いと思う。私は今楽しい。少なくとも過去よりは。そういう意味では成長しているし、進歩があるのだと思う。そういう山を登っていくような人生をこれからも歩みたい。

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皆さんは大学生活どうですか(どうでしたか)?